2024/01/28 16:11



 愛知県岡崎市の田舎で生まれ、そこでそのまま育った。小学生の時、社会科の授業で「市中に最も流通しているのは一万円札である」と教えられたことが、どうしても信じられなかった。私の住んでいる地域では、子どもにとって一万円札というのはまさに高嶺の花。耳にすることはあっても、そう簡単に見ることなどなかった。
 そうした状況で「市中に最も流通しているのが一万円札だ」と言われても、ピンと来るはずがない。

 中学生になって、何とか高校に合格すると、皆がそれなりに祝福してくれた。合格の報告のため、これまた愛知の田舎で小さな町工場を経営していた祖父のもとへ赴いたところ、作業服のまま工場の事務室にちょっこと入ったかと思うと、「潤くん、高校受かったのか。なら、小遣いやろう」と会社のレジからついさっき出したであろう10枚の千円札をくれた。
 「いい加減、潤くんはやめてよ、もう高校生なんだから」と口では言いながらも、心は弾み、祖父の「ばか、自分で稼いで誰かを養っていないうちは、まだガキだよ」とからかう声を後に、帰宅時、もらったお札を握りしめて考えることは、「この一万円 で何を買おうか」、そんなことだけだった。
 自宅に着くと、用があったからとそのついでに我が家で待ってくれていた叔父は、大企業のサラリーマンらしく、びしっと決めたスーツの出で立ちで「潤ちゃん、お祝い」 と、しわひとつない新札の一万円を差し出した。やはり「潤ちゃんは やめてくださいよ〜」と口を尖らす私に対して、「僕にとって、潤ちゃんはいつまでも潤ちゃんだよ」そんな答えが返ってきた。それがなぜだかわからないが、同じような愛称でも、その時は、なぜか伯父には子ども扱いされ祖父には可愛がられているような気がしたものだ。でも「また一万円」と、更にまたお金が増えたものだから、さすがに祝福された気になり、高校に受かって本当に良かったと思えるのだから、まさに現金なものである。
 数日して、お金のほうは、もちろん、祖父のくれた千円札から使った。それはそうだろう。新札の一万円札なんて、そうそうご縁が無いのである。すごく珍しく、とてもではないが使おうなんて気になれない。なので、とても大事に、あたかも宝物の如く、大切に机の中にしまいこんだ。そして、「祖父は、使いやすいようにと、あえて千円札を渡してくれたのかもしれない。一方、叔父は、かえって使い難いようにとの配慮で新札をくれたのかもしれない。」と、そんなふうに勝手に思ったりもした。

 ところで、一端のサラリーマンとなった現在、Brooks Brothersのスーツを着た立派なコンサルから「苦労して稼いだ一万円も、楽して得た 一万円も、一万円は一万円。経営(者)には、そういった割り切りが必要だ」と説法を受けたことがある。
 そのココロは「夢を追うだけではなく、稼げるところでしっかりと稼いでください。儲けられるところでしっかりと儲けてください。」と、そういうことだろう。今になって考えてみれば、高校卒業の当時は、そんな理屈を分かってはいなかったが、千円札10枚からなる一万円も、一万円札1枚も、全く同じ価値であるという考えで、それらの価値の違いも分からずに、使いやすいほうから使ったわけである。ただ、叔父は大企業勤めである一方で、祖父は地方の中小企業、それも下請け企業だった。彼らにいかなる配慮があったにせよ、一万円を稼ぐ難易度に大きな差があったことは明らかである。

 しわくちゃの10枚の千円札と、ぴんと張った新札の一万円札。この一万円、祖父の商品をいくつ納入すれば稼げたんだろうか。
 かつて電車の中で何に使おうかとばかり思っていた自分が、そして「使いやすいように…」などと能天気に考えた自分が、今はそんなふうに思う。そしてまた、祖父の言った「誰かを養って一人前だ」というのが、苦労して得たお金をその人のために喜んで差し出すことだということが分かって、“僕”は 大人になった。
 今だったら、単に使いやすいからという理由だけで「安易に、しわくちゃの10枚の千円札のほうから使う」なんてことはまずしないだろう、いや、とてもではないができないだろう。こんな自分は、もし祖父がまだ生きていたならば、「どうだ!もうそろそろ一人前だ、潤くんはやめてくれよ」と言えただろうか。そして、今の私を見たら、“僕”のことを散々に子ども扱いした祖父は、一体何と言うのだろうか。

 もっとも、既に “私”となったこちらとて、祖父に報告したかったことは山ほどある。けれども、ただでさえ長文なのでこの場を借りて一つ。
 「次の一万円札の渋沢栄一、おじいちゃんにまあそっくり、最初の一枚を持って、また会いにいくね」

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文・写真=山下潤平(会社員)