2023/12/26 20:31

横目に入る白んだ息に、冬の訪れを感じる。今年、槇原敬之の『冬がはじまるよ』を初めてかけたのはいつだろう。季節感のある音楽をかけるタイミングにセンスが現れる気がしている。地方のスーパーで聴く少し前のポップスには妙に心が踊り、つい口ずさんでしまう。

去年の今頃ってもうダウンを着てたっけ、なんて考えながらカレンダーに目をやると、早くもすっかり年の瀬だ。毎月の最終日を晦日と言い、12月の最終日、12月31日を大晦日と指すらしい。

私は大晦日が好きだ。好きなことは減ったり増えたりするけれど、これは変わらない。
この一年を振り返る日であり、過ぎたことをクヨクヨと悩む私の悪癖が珍しく効果を発揮する日でもある。
豊かに健やかな人生を歩みたいだけなのに、どうして寂しくて悲しいことは断続的に訪れて、その度に虚しい気持ちに苛まれる必要があるのだろうと思う。好きなことや嬉しいこと、興味があるものがあればあるだけ、仄暗い出来事はあって、不意にそれが無くなってしまったり形を変えてしまったとき、どうしようもなく立ち尽くしてしまう。すぐに前を向ければ良いのだけれど、なかなかそうもいかず、かと言って後ろを過剰に振り返っても意味がないことはさすがに理解しているつもりなので、結局その場で長考してしまう。
そんな問答に押され、少しずつ一歩を踏み出すことでじりじりと今日までやってきたのだけれど、一連の非生産的行為が一年の瀬戸際で生きる日、それが大晦日だと思う。人生はこの繰り返しなのかも知れないが、これが意外と癖になる。
腐ることは簡単だが、こんな私でも日の目を見る場面はあるのだから、希望の種には適度に水をやり続けていたいと思う。

大晦日の包容力にすっかり抱かれっぱなしの私だが、子どもの頃家族と行った初詣で、知らない大人から振る舞われた甘酒と勢いよく燃える焚き火を見て、ここにいることがバレて、飲酒と放火で捕まったらどうしよう…とひたすらに怯えていたことを不意に思い出す。あれは大変に怖かったし、もしかしたら突然警察がチャイムを鳴らしに来るのでは、と思い出して不安になることもあった。誰でもいいからせめて、今夜は大丈夫なんだよ、と根拠もなく安心させるべきだったと少し恨んでいる。
一方で、赤ら顔で楽しそうに笑う大人たちを見て、つられるようにワクワクしていたことも覚えている。
あのとき感じた恐怖は年齢と常識を経て当然になくなったが、大晦日の高揚感だけがしっかりと濾過され、濃い目に体内に残った。

もちろんクリスマスやバレンタインのような色鮮やかなイベントも素敵だと思うし、高揚感だけで言えばそれらの方が強いのかも知れないけれど、親しい人たちと肩を寄せ合い、半纏を着てハフハフと鍋をつつく、モノトーンなのに温かみがある大晦日のこぢんまりとした雰囲気に惹かれてしまう。
とは言え、雰囲気こそこぢんまりとしているが、より質の高いこぢんまりを作り上げるにはそれなりのエネルギーが必要になる。そこでこの高揚感をエネルギーに変え、買い出しや準備に奔走する。

せっかく鍋を囲うなら、寄せ鍋にしようか、しゃぶしゃぶにしようか、たまにはすき焼きにしようか。
しゃぶしゃぶをするなら肉か魚か、どちらにしよう。
どれを選んでも正解になるからこそ、いつまでも悩んでいたくなる。

滔々と流れる日々の中で、もちろん嬉しいことや楽しいことはあるけれど、それらを「幸せ」と呼ぶことはちょっぴり照れくさい。大晦日が持つ祝祭的なムードは、つい曖昧にしてしまいがちな私の幸せの輪郭を鮮明にしてくれる。

今年は、子どもが生まれて迎える初めての大晦日になる。
これからを生きる彼女の心に、愉快な大晦日の記憶が残ればとても幸せだなと思う。

かじかむ指で自転車の鍵を開けると、カシャンと小さな音が鳴る。
他に音のない冬の朝、眠りについている誰かを起こしてしまわないように、静かにペダルを漕いだ。



文・写真=早川哲矢(会社員)